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しろいうさぎとくろいうさぎ

 投稿者:遊観  投稿日:2014年 7月13日(日)21時27分17秒
  https://www.youtube.com/watch?v=SLwYb3VvNfA&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=SLwYb3VvNfA&feature=youtu.be

 
 

ブログ

 投稿者:江部遊観  投稿日:2013年12月18日(水)22時54分38秒
  ブログを書いています。下記です。
http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/

http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/

 

拙著「イエス・ノーリーラー」

 投稿者:遊観  投稿日:2011年 7月 8日(金)00時38分38秒
  拙著残りが少なくなりましたので、購入ご希望の方ご連絡下さい。
現在はブログ等の記事などで第二巻をと考えています。
 

イエス・ノー・リーラー

 投稿者:遊観  投稿日:2011年 5月 3日(火)13時46分9秒
  拙著をお読みになりたいとのメールをここ数日
何人かの方から頂きました。
ありがとうございます。またブログのご購読も思ったよりずっと
多いので驚いています。重ねて御礼申し上げます。
 

イエス・ノー・リーラー

 投稿者:遊観  投稿日:2011年 2月24日(木)22時37分27秒
  自費出版しました。
ご希望の方はメール下さい。
 

続 ソフィアとの戯れ

 投稿者:遊観  投稿日:2010年 8月12日(木)22時07分52秒
  ながい間、ここに書き込みをしていないので、削除されては困るのでブログに書いた同じ原稿をここに置きました。


入院前にこのタイトルで書きましたが、やはりベッドに寝ているだけというのはいろいろ考えるものです。数冊の本と音楽とヘッドホンを持って行きましたが、これまで考えていたことや読んだ本を反芻したりしました。収穫はやはりベーメでした。これまで書いてあることをいくら考えても理解が進まないことも、考え続けることによって大分分かるようになりました。
ベーメはドイツ語で著作を著していますが、おそらくドイツ語でも日本語に翻訳された文章でも同じように難解だと思いますが、翻訳の際にその難解さが増すというような文章ではないようです。

ぼくはドイツ語が分かりませんが、コツさえつかめばベーメの言うことがよく分かるような気がします。もちろんギリシャ哲学やヘルメス哲学、また錬金術について多少の知識が必要ではありますが、率直な語り方には共感を持てます。



さて、ソフィアとの戯れは思ったほど進みませんでした。彼女はやっかいでした。
以下に入院時のメモの一部を置きます。





般若心経 一切智に帰命す
美しく流れるような旋律は 洗練され、完成している。
次々と流れ去る雲のように、跡形もなく、空虚な無には一切ふれず、
無を残すことなく、流れ去る空性を説く。
空観、縁起の法にのせて存在をうつろいの影となし、さらにその影さえ、木っ端微塵!



熱望は自己自身を捉え、自己を圧縮する。すなわち熱望は自己を凝固させ、自己の中で自己自身を牽引する。そして自己を捉え、自己を無底から根底へ導き、無が満ちたものとなるように、磁気的な牽引によって自己自身を影で覆う。
しかもそれは無に留まる。それはただ闇という一つの特性にすぎない。





湿った暑く重い空気はそよとも動かず、やりきれぬ大気の圧力が心と魂を押さえつける。
熱く溶けた金属が首筋から胸を伝わり、心の硬い部分をも融解する。
皮膚を破り、肉を焼き、心臓にいたる。
心を覆う心臓が融解すると、熱い砂に置かれた魚のように、心はむきだしとなる。
心の融解がはじまる。
心の柔らかい部分は、煙を伴ってシュッと消失し、残った硬い部分でさえ、赤熱し、
やがて崩壊がはじまる。
 

ご参考までに・・・温暖化について去年の九月に書いたものです。

 投稿者:遊観  投稿日:2010年 1月10日(日)12時02分53秒
  ヨーロッパにおいての花粉分析による過去13000年間の気温や降水量のデータによると、3000年前から7700年前の4700年間、地球の気温はかなり高かったようだ。日本列島の場合も例えば埼玉県富士見市の水子貝塚が存在するように、当時は日本列島の海岸線は相当内陸まで入っていた。この期間は縄文時代の前期後半から後期の前までの間であり、縄文海進と呼ばれている。

このように地質年代からみるとほんのわずかな期間であっても、地球の平均気温は相当に上下している。現間氷期が始まる前のヴュルム氷河期の頃は現在の水深120メートルまでが陸地であり、北海道、樺太はユーラシア大陸の一部だったし、スンダ列島は大陸だった。当然瀬戸内海も陸地であり、この列島の景観は現在とは驚くほど違っていた。

 さて、人類が排出する二酸化炭素やメタンなど温室効果ガスによって2100年には海面上昇が50センチ以上と考えられているが、どういうわけかアメリカは温暖化対策に消極的である。この件に関してはWikipediaによると・・・。

「氷期と間氷期の変動に関連して、アメリカ国防総省が専門家に依頼して作成した地球温暖化の影響による大規模な気候変動を想定した安全保障についての報告書(Schwartz, P. and Randall, D. 2003)の存在が2004年に明るみに出て注目を集めた。 それによると、地球温暖化による海流の変化が原因で、北半球では2010年から平均気温が下がり始め、2017年には平均気温が7~8℃下がるという。逆に南半球では、急激に温度が上がり、降水量は減り、旱魃などの自然災害が起こるという。」

という国防総省の報告に基づいているのかもしれないが、いかがなものだろうか。
確かに「1990年から2100年までの間に平均気温が1.1~6.4度上昇するであろうことが、過去1万年の気温の再現結果に照らしても異常」であることが指摘されているが、BC5000年前後の異常な気温上昇もあることから、あるいは地球にとってさほど異常ではないかもしれない。

だからといって、ここで温暖化を放っておいてもいいということではないが、視点を変えて見ると、温暖化を阻止するという態度は人類の経済活動を縮小させるというコンセプトになり、逆に温暖化に注意を払わないという態度は、経済活動・軍事活動を縮小させる必要はないということだ。これはどういうことを示唆しているのだろう?
 

(無題)

 投稿者:モンキー  投稿日:2010年 1月 5日(火)00時36分23秒
  遊観様、ありがとうございます。
じっくり読んでみます。
 

モンキー様「ハイブリッドカー」について

 投稿者:遊観  投稿日:2010年 1月 2日(土)20時25分8秒
編集済
  モンキー様、ぼくのブログを読んで頂いているとはうれしいかぎりです。ありがとうございます。カウンターの数字が予想以上に上がっているので、これかもどんどん書いていきたいと思います。

さて、エコについてですが、これは非常に難しい問題です。温暖化を止めなければならないからエコが必要なのか?では温暖化とは何なのか?エコは単なるビジネスチャンスなのか?
エコについて考えることは、人類の責任の問題・・・人類の存在意義、また政治や哲学・経済思想・・・根源から問い直さなければならないことでしょう。
ここ2~3万年の間でも氷河期の海の後退、また五千年ほど前の縄文海進がありました。地質学的には途方もない動きがありました。もし、今回の温暖化が人類の責任であるならば、これは実に由々しき問題であることは間違いありません。では、どうしたらよいか?エコブームに安易に乗ることが、実はそうではないことも考えられることから、このような提言をさせていただきました。


ハイブリッドカーについては下記のようなリンクが、捜すと山ほど出てきますし、本も出版されています。
お調べになって頂ければ幸いです。
http://opus77.net/blog/2009/03/14-1650.html

http://takedanet.com/2009/05/post_7ade.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A

http://90326214.at.webry.info/200904/article_69.html

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%81%AF%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%AE%9D%E5%B3%B6%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-297-%E4%B8%A1%E8%A7%92-%E5%B2%B3%E5%BD%A6/dp/4796666915

http://sqa.scienceportal.jp/qa5291754.html
 

質問です。

 投稿者:モンキー  投稿日:2010年 1月 2日(土)01時04分44秒
  遊観様、いつも楽しく読ませてもらっています。

ブログの

ハイブリッド・カーはニッケル水素電池を使用しているが、これを製造するのには莫大なエネルギーを消費する。一説では結果的に電気自動車はハマーの1.5倍のエネルギーを消費するそうである。ニッケル水素電池について、少し調べればすぐ理解できる。

の部分ですが非常に興味深いです。もし可能でしたらソースを教えて下さい。
よろしくお願い致します。
 

研究報告は主にブログにて

 投稿者:遊観  投稿日:2009年10月 5日(月)17時57分5秒
  研究報告はトップページの「ブログ」に写しましたが、こちらへの書き込みも歓迎です。

http://http://members.jcom.home.ne.jp/lila/newpage3.htm

 

唯物論には限界がある。

 投稿者:遊観  投稿日:2008年 6月 4日(水)00時53分53秒
  我々人類が太古から培ってきた精神や心、また宗教や芸術を全て脳のシステムやネットワークだと言って、数学的に片づけてしまうのはどういうものだろうか。ドンキ・ホーテならまだしも立派な学者のやることではない。
また複雑系の学者であるV・Sラマチャンドラは芸術も複雑系で処理できると豪語するし、数学的に処理できない宗教など考えるにも値しないと考える学者もいる。これは思い上がりだ。かつて、科学は初期条件をきちんと把握できれば予測は100パーセント可能だと考えていたにもかかわらず、科学自らがこれをひっくり返して、そんなことは不可能だと宣言するようになったではないか。科学が生命や脳、精神や心・宗教・芸術を軽々しく数学処理できると考えることは危険である。なぜなら、科学が発達してきてからまだ1000年にも満たない。しかも新しい発見や、定理によってくるくるとしゅっちゅうその態度を変える。まったく信用ならない代物である。数万年、数十万年の蓄積を持つ科学ならばある程度信用できるだろうが、まだたった1000年である。人類の600万年の歴史からみると1000年は6000分の1の時間である。
 

ダークマター(Wikipediaから)

 投稿者:遊観  投稿日:2008年 5月22日(木)22時04分37秒
  暗黒物質(あんこくぶっしつ、dark matter)とは、宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないか光を反射しないために光学的には観測できない物質のことである。「ダークマター」とも呼ばれる。

暗黒物質の存在は、ヴェラ・ルービンにより指摘された。水素原子の出す21cm輝線で銀河外縁を観測したところ、ドップラー効果により星間ガスの回転速度を見積もることができた。この結果と遠心力・重力の釣り合いの式を用いて質量を計算できる。すると、光学的に観測できる物質の約10倍もの物質が存在するという結果が出た。この銀河の輝度分布と力学的質量分布の不一致は銀河の回転曲線問題と呼ばれている。この問題を通じて存在が明らかになった、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質が暗黒物質と名付けられることとなった。(但し、一部の学者には宇宙に関することでほぼ完全に理解されていると思われるのは全体のわずか4%であり、残りを全て暗黒物質に押し付けて良いのかと言う者もいる)
 

よしださんへ

 投稿者:遊観  投稿日:2008年 5月22日(木)21時59分21秒
  三章の「保育園と死後の世界」をお読みになられてのご感想ですね。
ぼくも幼い頃の(実は現在でも・・)不思議な体験があまりに強烈だったので、それ以来ずっとこのことを考え続けてきました。そうなんですね、われわれが把握しているエネルギーは宇宙全体の4パーセント(電子・陽子・中性子)にすぎず、ダークマターと呼ばれる真空中に存在するエネルギーなど、いまだに分からないことだらけだと物理学は言いますね。4パーセントだけの法則でこの世界の全てが分かるはずはない・・・やはりそうだと思います。
 

思い当たる事が・・・

 投稿者:よしだですm(_ _)m  投稿日:2008年 5月22日(木)21時23分36秒
  小学に上がる前の保育園時代に、右手の一差し指、中指、薬指に特に、黒い長い光が見えていた事が今も覚えてます。親に向けても見えてないのが分かり...すぐ見えなくなりました。小学3年の時、爪の黒い霧みたいな光(ライトサーベルみたいな)事を、夢、で見たきり現実では考えなくなりました。
保育園の幼い頃は、目が覚めていても、記憶の整理や、早く大人と同じ感情表現を練習したい念から、一人で言葉の練習をしている場合もあると思います。それが、はたから見れば、そこに何かがいるように見えるのかもしれないと思いました。でも、でも、それだけでは無い気もします・・・
不思議です。
 

「天皇のロザリオ」

 投稿者:遊観  投稿日:2008年 4月 6日(日)02時03分46秒
  確かにキリスト教はヨーロッパ列強の手先となり、結果的にアジア、アフリカの植民地化を手助けしていることになる。その際はたくさんのひとびとが殺され、奴隷とされた。その数は5千万人以上だと推定されている。殺された人の数はもっとだろう。巨悪なんてものじゃない。キリスト教の後ろにはルシファー崇拝がある、そんな感じもする。が、しかし、本当に愛や命について考えているクリスチャンもいる。組織は腐敗しすぐに異臭が鼻につく。だが、その組織の部分である個人はさまざまだ。そう考えるほかはない。  

秀吉は準管区長コエリヨに対して

 投稿者:遊観  投稿日:2008年 3月16日(日)23時58分50秒
  秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じています。  

ザビエルと少年天正使節団

 投稿者:遊観  投稿日:2008年 3月16日(日)23時35分45秒
  ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙から引用すると、
「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)
「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。
ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)だけあって、金儲けには抜け目ない様子が、手紙を通じても窺われます。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸しました。この人も改宗ユダヤ人で、ポルトガルを飛ぴ出してから世界を股にかけ、仲介貿易で巨額の富を築き上げましたが、なぜか日本に来てイエズス会の神父となりました。彼はその財産をもって宣教師たちの生活を支え、育児院を建て、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てました。
(2)奴隷売買
しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249~257から、部分的に引用したいと思います。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
 

こちらだと大変読みやすいと思います。

 投稿者:遊観  投稿日:2008年 2月11日(月)00時08分18秒
編集済
  でじたる書房さんでダウンロード版300円です。とても読みやすいので勧めさせていただきます。

http://www.digbook.jp/advanced_search_result.php/search_in_writer/1?keywords=%B9%BE%C9%F4&x=26&y=11

 

科学の将来には大きな期待を寄せている。

 投稿者:遊観  投稿日:2008年 2月 5日(火)22時02分12秒
編集済
  この世界はまったく違う法則の下にあるミクロとマクロの世界があり、それがリンクしているという多重世界である。われわれの住むこの世界の上位に向こうのフィールドの存在を想定することは決して非科学的なことではないと考える。ましてや、向こうのフィールドの存在は太古から連綿と伝えられているだけでなく、先端的な科学者はこれを否定しない。もちろん向こうのフィールドがあの世かもしれないなどと科学は決して言わないが、シェルエドレイクの形態形成場や物理学で言うハイパー空間が存在するならば、あの世だって存在してもおかしくはない。しかも、シェルドレイクはそうした「場」の存在を証明する手立てを明らかにしているし、リサ・ランドールはその著「ワープする宇宙」でスイスのCERN (欧州原子核研究機構)が建設した全周27キロメートルの円形加速器で五次元世界の存在を証明する実験を紹介している。素粒子はひものような存在の振動として考えている超弦理論という途方もなく難解な考え方からの実験のようだが、リーラーはその難解な理論が確立するであろう五次元世界の存在証明が、あるいは「向こうのフィールド」・・・「あの世」の存在証明につながるかもしれないと考えるものだからそうした最先端科学に親近感を抱く。もちろん科学が証明した、あるいはするであろうハイパー空間や五次元世界、形態形成場などの超次元世界を「それがあの世の証明だ」などと叫ぶつもりは毛頭ない。ただ、超次元世界の存在が確かなものなら「あの世」の存在だって不自然ではないだろうと考えるものである。
その証明についてだが、最先端の科学であろうとも超次元世界の存在を直接的に証明するのではなく、間接的な証明である。向こうのフィールドに電波を送ってその反射を測定したり、ロケットを打ち込んだりするわけではない。証明の手立てはあくまでも手順の複雑な難しい分析を必要とする間接証明だ。しかし間接的だからといってそれが直接的よりも劣るわけではない。考えてみれば、この世界を理解するのに実際的な直接的などあり得ない。たとえば人間の視覚を考えてみれば一目瞭然である。電磁波が目の網膜にあたり、その刺激が神経を伝わって脳に至りそこでその電磁波を分析・編集され、その結果をわれわれは映像として把握する。「見える」という一見直接的なことですら、多くの間接的な曲折を経ている。
 となると観測・分析できない存在を間接的に証明できるのだから、あの世もその範疇に入るのではないか・・・それがここでの論点である。人類にとってあの世は連綿と伝えられているだけでなく、過去の文化がその存在を前提として来た。ヒンズー文化、キリスト教文化、仏教文化、イスラム文化、また人類の死に対する意味・・・宗教的なもの・ことをまったく信じない人でも人の死に対して不敬な態度はとらない。これらはすべて向こうのフィールドの存在を前提としている。
 だが残念なことに現代は宗教組織の頂点に立つ権力者もそれに従うわれわれも、向こうのフィールドのことより快不快優先の刹那的な品の無い即物的な観点に立ってしまい、前提としている宗教性など単なるお題目に過ぎなくなっている。確かに現代文化は向こうのフィールドの存在という考えは希薄になり、物質文化にどっぷりとはまり、大規模な環境破壊など刹那的自虐的文化となっている。しかし人類はほんの少し前まで人間には魂があり、死ぬとその魂はあの世へと旅立つと考え、「袖擦りあうも多少の縁」などと言ってあちらのフィールドとこちらのフィールドのリンクを強く意識していた・・・輪廻転生という概念はその基本的なリンクを強く言い表すものだ。

 エジソンが本気で霊界ラジオの研究をしたように、将来現代物理学が向こうのフィールドの研究に本気で取り組むようになれば、向こうのフィールドの存在とその仕組みを解明できるようになるかもしれない。また、そうなれば異次元世界の探求は将来あの世がその研究の中心となるだろう。科学の将来には大きな期待を寄せている。
 

かつて人類は善人であった

 投稿者:遊観  投稿日:2008年 1月 4日(金)02時05分46秒
編集済
  有史以前、古代以前・・・何度も何度も氷河期と間氷期を生き延びてきたわれわれ人類には人類同士の暴力、殺戮はなかっただろう。リーラーはそう確信している。殺戮の道具と幻想の貨幣経済という道具によって仲間を陥れ、殺し、奪うということはなかっただろう。永い間われわれは善人であった。だが、人類の歴史が600万年だとしたら、その先っぽのたった一万年でわれわれは善人の資格を失ってしまった。しかし・・・その失われた善を蘇らせるにはそんなに努力は要らない。なぜなら、闘争と殺戮の時代は善人であった頃の、600万年分の1万年・・・0.0017パーセントにすぎない。99.99パーセントは隣人同士善人であった。人類の本来の性向は善人なのである。その失われた善を蘇らそう!闘争と殺戮、嘘、脅迫など本来は人類には必要ない。人類の歴史はたったの5000年、1万年ではない。そんな少ない数字に目くじらをたてずに、おおらかにやろう。それがリーラーのコンセプトだ。  

The New world order

 投稿者:遊観  投稿日:2007年12月26日(水)23時17分42秒
  残念なことに現代の私たち人類のリーダーと目されている人々は、誠に粗野で低レベルだ。暴力とマネーという二つの力だけにたよっている。その人々はこのたった二つだけから野蛮で粗野な堕落した思想を構築し、戦争を起こし、歴史を改ざんし、人々と環境を容赦なく殺戮してきた。彼らがもう少し上品だったならば、現代が抱える様々な危機を招くことは無かっただろう。とてつもない暴力、権力、マネーを有しているにもかかわらず、自らが構築した空虚で堕落した思想に振り回されている。彼らが手に入れた巨大な荷物(物理的という意味)の中には、権力、暴力、マネーが入っているが、同時に大きな不安と恐怖も入っていた。だから彼らはそれを打ち消すためにも傲慢で暴力的性向なのだろう。向こうのフィールドをはき違えて解釈している。向こうのフィールドについて彼らは何もしらないのだろうか?まあ、知っていたらこんなに粗野で暴力的で下品ではないだろうが・・・。彼らは確かに現代のファラオかもしれないが、残念なことに当のファラオが間違っていた。その間違った解釈を踏襲してしまっている。数千年前の古代人の誤りに気がつかないとは・・・!そんな人々が人類を牛耳っている・・・。死後、彼らは未来永劫に渡っての恐怖を味わうことになろう。「悔い改めよ!」そう書いてあるではないか!  

ヨハネのアポクリュホン

 投稿者:遊観  投稿日:2007年10月28日(日)01時22分45秒
編集済
  ナグ・ハマディ文書の第一巻の一番はじめに「ヨハネのアポクリュホン」がある。
何度も何度も読み返しているのだが、やはりこれはこちらのフィールドのことではなく向こうのフィールドのこととしか考えられない。研究者はこれを創世記とのからみにおいて説明しているが、そうではなくビッグ・バンやリサ・ランドールの五次元の世界やシェルドレイクの時空を超えた場を連想させる超宇宙的な内容である。プレローマという至高の神の場からソフィアの過失によってデーミウールゴスという物質世界に君臨する造物主が生まれ、その物質世界をアルコーンという存在が支配するという内容である。さらにデーミウールゴスは人間の魂を物質に閉じこめた悪神ということになっており、創世記のように全能の神ヤーウェというニュアンスとはまったく違う。プレローマは五次元世界、時空を超えた場、仏教の浄土に相当すると分かりやすいと思う。またアダムとエヴァに知恵の実を与えたヘビは創世記では悪神だが、「ヨハネのアポクリュホン」では、人間の霊魂を物質界から解放する知恵(グノーシス)を与える善なる神という設定になっている。
 まるで創世記とは違う。だから聖書学者のいうように創世記との関連において考えるよりは、まったく別の視点に立たねばこれを読むことは難しいだろう。
そう考えると、この書は正典である聖書やアポクリファを参考にするよりはもっと広い視野が必要だと思う。例えばこの文書にある「男女なる」という表現はプラスとマイナスという電気の表現であり、支配者のアルコーンとは物質世界を統御する物理法則であると考えたほうが納得がいく。
この書は驚天動地の書だ。現代物理学が表現しようとしていることを2000年も前に先取りしている!そういうことになる。
まずはこの書を少しずつ、注意深く読んでいくことにしよう。
 

色即是空

 投稿者:遊観  投稿日:2007年10月21日(日)11時19分14秒
編集済
  ナグ・ハマディ文書の「ヨハネのアポクリュホン」をゆっくりと読んでいると、どうしても第三章で精読したチベットの死者の書を想起してしまうのはどういうことだろう。方やチベット語からの方やコプト語からの日本語への翻訳を通してであり、かつグノーシスと仏教という大きな相違がある。にもかかわらずである。
詳細はこれからやっていくつもりだが、この感想は思いこみや考え違いではなく自分の中ではとても自然に思える。ナグ・ハマディ文書を読み始めてから約半年、遅々として進まないがゾロアスター教やマニ教やキリスト教、仏教・・・ユングの提唱する元型がその中にあるようで、どうしてもその元型を知りたいと願う気持ちは日に日に強くなる。またニュー・ワールド・オーダーと呼ばれる物質世界での人類の掌握を考えている人たちが信奉している思想は、実は至高神から下位にあるデーミウールゴスの法則によるアルコーンとしてのものだということも分かって来た。彼らには是非「ヨハネのアポクリュホン」を読んでもらいたいものだ。せめて「重い涙」を流せるように自分自身を改めないと、またナハーシュの見解を・・・つまりエデンの園においての蛇の理解を得ないと未来永劫にわたって償わなくてはならないという想像を絶する恐怖と困難と苦難に捕縛されてしまう。だから、キリストは「右の頬を打たれたら左の頬を・・・」とまで強く訴えているのだ。
おそらく仏典や旧約聖書を含むあらゆる宗教書の下にはQ資料があったのだろう。そのQ資料を垣間見るにそれほどの労苦は必要ない。ふとしたことから、ちょっとしたことから思索を重ねるだけでよい。リモート・ビューイングなどの世界が存在するのはこの世界が明らかに二元的な世界だからである。しかもこちらは下位の立場だ。鏡に写る鏡像はあくまでも鏡像であり本質ではない。プレーローマとは浄土のことであり、「色即是空 空即是色」はこの関係を示している。空を鏡像と読み替えればこれは一目瞭然であろう。
 

ナグ・ハマディの解釈をすこしずつまとめています

 投稿者:遊観  投稿日:2007年10月13日(土)22時18分19秒
  リーラーの宇宙第三章にナグ・ハマディの解釈が必須だと考え、これを第三章に加えるよう用意しています。  

トマス福音書の解釈の用意

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 9月28日(金)15時38分40秒
   休みだったので再び「トマスによる福音書」を通読してみた。分量としては少ないので目を通すだけなら直ぐである。しかし内容を把握しようと努めると・・・・・。
荒井先生の「ナグ・ハマディ文書」には細かい訳注と注がついている。例えば、「二 この言葉の解釈を見いだす者は死を味わうことがないであろう」に「(2)ヨハ八52参照」などとついている。そしてそれに従って正典ヨハネによる福音書の八章52節を見ると・・・「人もし我が言葉を守らば、永遠に死を味はざるべし」とある。
これを一つ一つ行いながら、読み進むとまた格別の楽しさを覚える。
「トマス福音書」の序は「これは、生けるイエスが語った、隠された言葉である。そして、これをディディモ・ユダ・トマスが書き記した。」とある。
そして注には「didymos ギリシャ語で双子の意。古代シリア教会でユダ・トマスはイエスの双子の兄弟とみなされている。トマス行伝一、三九など参照。・・・とある。トマスについては以下が参考となる。
新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。アラム語の原義は「双子」。彼に由来する男性名としても一般的に用いられている。ディディモは「双子」をギリシャ語に訳したもの。ロシア正教会とその流れを汲む日本ハリストス正教会ではフォマ。
福音書の一部写本や外典に「ユダ・ディディモ」とあり、本名ユダのあだ名とも考えられる。「双子」の名がなぜ付いたか、誰と双子なのかは不明。
使徒トマスに関して新約聖書では十二使徒の一人として挙げられるほかは、「ヨハネによる福音書」に以下の記述があるのみである。
「ヨハネによる福音書」では情熱はあるが、イエスの真意を理解せず、少しずれている人物として描かれている。(ヨハネ11:16参照)ヨハネ20:24-29ではイエスが復活したという他の弟子たちの言葉を信じないが、実際にイエスを見て感激し、「私の主、私の神」と言った。またイエスのわき腹の傷に自分の手を差し込んでその身体を確かめたとも。
アメリカではトマス福音書を4福音書に加えて「5Gospels 」などという表現もでてきている。英訳の代表的なものは以下のリンクを参照していただきたい。
http://www.gnosis.org/naghamm/gthlamb.html
英文ならタダでナグ・ハマディ文書が手に入ります。私はあまり語学力がないので、もっぱら荒井先生の本と上記のサイトを対照して解釈しています。さて、この文書に対して少し心の用意ができたので、一節から少しずつ解釈を試みてここに発表していきたいと考えます。
 

箇条書きのような・・・

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 9月25日(火)01時14分7秒
  現在「ナグ・ハマディ」の精読に努めている。当然のことだろうが、なかなか読み進めない。しかし「ヨハネのアポクリュホン」「トマスの福音書」「真理の福音書」などは何度も読み返してみた。また新約・旧約聖書や旧約聖書外典(アポクリファ・聖公会出版)などを手元に置いている。そしてこれらを読み比べてみると正典の四福音書は旧約、外典、そしてナグ・ハマディ文書から浮いている印象を持った。四福音書は時系列に沿っているし、物語的というか文学的に他の文書とは違ってよく整っている。相当手が入っているという印象が強い。例えば仏典の初期に編纂された「スッタニパータ」と大乗仏典のような違いを感じた。つまり仏教経典もキリスト教典も初期のものは、ほとんど箇条書きのような形式だが、仏陀入滅後、キリスト昇天後からかなりの年数が経てから編纂されたものは文学的にも物語的にもよく整っているのである。しかし「創世記」や「出エジプト記」「ヨブ記」など旧約聖書が整っていることとは別の印象であるということである。なにしろ、旧約聖書はユダヤ教のものだし、新約聖書は時間的に旧約の上にあって成立しているものだから。例えば「イザヤ書」の53章にはキリストが世に出ることを預言していることなど・・・。

「スッタニパータ」の冒頭の部分は次のような箇条書きだ。
一 怒りが起こったときには、全身に拡がる毒を薬草でおさえるように、その怒りをおさえる出家修行者は此岸をも彼岸をも捨て去る。蛇がもとの抜け殻を捨て去るように。
二 水に潜って池にはえている蓮華を切り取るように、愛欲をまったく切り取ってしまった出家修行者は、此岸をも、彼岸をも捨て去る。蛇がもとの抜け殻を捨て去るように。
三 奔流の水を涸らせ、渇望ををまったく切り取ってしまった出家修行者は・・・・

聖書外典「ソロモンの智慧」
一 地を治むる者どもよ。義を愛せよ。正しきをもて主を思い、まごころもて主を求めよ。
二 主は、主を試むることなき者に見いだされ・・・

トマスの福音書

三六 イエスが言った・朝から夕まで、何を着ようと思いわずらうな。
三七 彼の弟子たちが言った。「どの日にあなたは私たちのものに現われ、どの日に私たちはあなたを見るでしょうか。
イエスが言った。「あなたがたがあなたがたの恥を取り去り、あなたがたの着物を脱ぎ、小さな子供たちのように、それらをあなたがたの足下に置き・・・

 マタイ・マルコ・ルカ・・・そしてヨハネによる福音書はご存じだろうが、こうした箇条書きではない。


 話しは変わるが、ぼくのような浅学な者の一面的な見方に過ぎないかもしれないが・・・。
ペイゲルスはキリストを神と同一レベルに置いた「ヨハネの福音書」こそがカトリック(普遍的統一教会)を成立させる重要な書であると書いているが、「はじめに言葉ありき」という出だしはどう見てもこれはグノーシス的に見える。「ヨハネの福音書」はそういう意味でも非常に興味深いものである。「言葉」はギリシャ語のLogos だが、これについてはストア派では「世界理性」「指導的理性」という深い意味をもたせている。グノーシスではプレーローマという最上の世界との関係においてLogos をとらえている面が大きい。
 

カーテン

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 9月19日(水)22時57分0秒
編集済
   ナグ・ハマディ写本「アルコーンの本質」第22 “ピスティス・ソフィアの過失、流産の子の誕生” には次のように記してある。

上なる天と下なるアイオーンの間には一つのカーテンがある。そしてそのカーテンの下に一つの陰が生じた。そしてその陰が物質となった。そしてその陰は少しずつ投げ捨てられた。そして、彼女が造ったものは物質の中でまるで流産のような業となった。それは陰から形を受け取った。それはライオンに似た傲慢な獣となった。それは、すでに述べた通り、男女である。なぜなら、それは物質から出てきたものだからである

次にリサ・ランドール博士の発言をみていただきたい。興味深い一致だと思うが・・・・・。どうだろう?

 Lisa Randall( 物理学超ひも理論物理学者)と若田さん(NASA  宇宙飛行士)との会話
「リサ・ランドール・異次元は存在する」NHK出版から・・・
L「普段経験している3次元の生活空間とはまったく異なった、もうひとつの別世界がある」
W「もう一つの別世界にどうすれば行くことができるのでしょか?」
L「残念ながら、人間がこの5次元世界を感じることはできませんし、行くこともできません。わたしたちの住むこの宇宙は、3次元の膜のようなものの上に貼りつけられているからです。わたしたちはその3次元の膜にぴったり貼りついていて、そこを飛び出して5次元世界に入っていく方法はないのです。たとえ、スペースシャトルで宇宙のどこまで行っても、5次元世界に出ることはできません。しかし、たとえ直接でていって探索はできなくても、5次元世界は確かに存在していて、わたしたちの暮らす3次元世界に驚くような影響を与えている可能性があるのです。
高次元世界における膜は、バスルームにおけるシャワーカーテンのようなもの。わたしたちや、物質は、シャワーカーテンに貼りついている水滴のようなもの。」
  バスルーム・・・・・・高次元世界
  シャワーカーテン・・・3次元世界
  水滴・・・・・・・・・私達

「アルコーンの本質」の第22はピスティス・ソフィアの過失によって・・・ランドール博士の言葉を借りれば、五次元の世界から吹き出した物質がこちらの世界を造ったと解釈できる。さらにランドール博士は五次元世界はこちらの世界に「驚くような影響を与えている。」と考えている。これは私の提唱する向こうのフィールドとこちらのフィールドのアップ・ロード、ダウン・ロードのことだとも言えるし、生きているときの業が死後の、さらに再生へ多大な影響を与えるとも読めるのではないか・・・深読みかもしれないが、私にはそのように読める。

 また五次元の世界とはグノーシス派ではプレーローマと呼ばれており、Gnosis (knowledge, insight)によってそこに帰ることが人間の心・魂の最終目的であるとされている。これは仏教の成仏に似たニュアンスだ。
(プレーローマ:ギリシャ語で充満の意。至高神以下の神的存在によって満たされた超越的な光の世界を実現するために、グノーシス主義の神話が最も頻繁に用いる述語。・・・なお、この語が複数形で用いられ、「父のすべての流出」を指す場合もある(真理の福音書)岩波書店ナグ・ハマディ文書 用語解説から
 

「共観福音書」

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 9月17日(月)23時41分25秒
  下記の投稿にて「共観福音書」を「共感福音書」と書いてしまいました。訂正します・・・どうやらメンテナンスした際全てのクッキーを削除してしまったようなので、本文の訂正ができなくなってしまいました。  

トーマス福音書

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 9月14日(金)13時52分22秒
  三 イエスが言った、「もしあなたがたを導く者があなたがたに、『見よ、王国は天にある』と言うならば、天の鳥があなたがたよりも先に(王国)へ来るであろう。・・・そうではなくて、王国はあなたがたの直中にある、そしてそれはあなたがたの外にある。あなたがたがあなたがた自身を知るときに、そのときにあなたがたは知られるであろう。そして、あなたがたは知るであろう、あなたがたが生ける父の子らであることを。しかし、あなたがたが自身をしらないなら、あなたがたは貧困にあり、そしてあなたがたは 貧困である」。  

とにもかくにも、キリスト教を根幹から揺り動かしてしまう凄まじい文書群がナグ・ハマディ写本なのである。

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 9月14日(金)13時36分6秒
  ナグ・ハマディ写本はエジプトのナグ・ハマディ村で農民が偶然発見したものだが、ここはナイルからほど遠くない山の麓だ。グーグル・アースで見ると日本人の私には山肌は荒涼とした岩山にしか見えない。発見場所から8キロほどのところに、かつて四世紀にパコミオスが創設した「パコミオス共同体」があった。(遺跡として残っている)ここの修道士の一人がどうやらこのコーデックス(パピルス古写本)を埋めたのだろうと推測されている。荒井先生の「序にかえて」では詳しくパコミオス共同体について説明されていないが、エレーヌ・ペイゲルス「禁じられた福音書」には当時の様子が生き生きと記されている。
コンスタンティヌスがキリスト教を国教と定めた後、エイレナイオスの考えをさらに強く押し進めた司教アタナシウスがエジプトの多様なキリスト教徒を自分の監督下に置こうとし、325年のニケイア会議で決めたカノン以外の外典は全てけがれているので、読むことはもちろん所持してもいけない、という命令を出した。アタナシウスがローマの軍事・経済力を背景にしているので全てのキリスト教徒はこの命令に屈せざるを得なかった。完璧な「焚書坑儒」が成功した。しかし、パコミオスの修道士の一人が後世ナグ・ハマディ写本と呼ばれるパピルスを修道院から持ち出して山の麓に埋めたことはパコミオス修道院のの一部の人々以外誰も知ることがなかった・・・以後この種のキリスト教典は忘れ去られ、カトリック(普遍的統一教会)のもくろみは成功したかに見えたが、1700年後の今日それが発見され、キリスト教会に凄まじい波紋を描き出すこととなった!
マタイ・マルコ・ルカの共感福音書のもととなるQ資料ではないのか!創造主はデーミウールゴスであり、物質世界を作って人間の魂を物質に閉じこめた悪神だった!眞なる神はデーミウールゴスの上位にあり、人間はグノーシスによってこの眞なる神を知ることができる。イエス・キリストは人間である。われわれはグノーシスによって誰でもがキリストになれる!・・・・マグダラのマリアはキリストの奥さん、アラム語で双子の意味をもつトーマス・・・キリストの双子の弟でインドに赴いて布教を行い、その知識をもとにして「トーマス福音書」を書いた!「真理の福音書」はヴァレンティノス派がグノーシスを得るために行う儀式の際に読誦されたのではないか?「ヨハネのアポクリュホン」が描き出す創世の話は正典の創世記とはまったく逆ではないか?「アルコーンの本質」に至っては・・・・。正典である「ヨハネの福音書」はエイレナイオスの時代にカトリック運動を推し進めるために作られたものではないか?だから他の三福音書と様相が違う?

 とにもかくにも、キリスト教を根幹から揺り動かしてしまう凄まじい文書群がナグ・ハマディ写本なのである。
 

ナグ・ハマディ解釈の態度

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 9月 4日(火)00時02分7秒
編集済
  ナグ・ハマディ写本はパピルスの状態から紀元3、4世紀のものでギリシャ語からコプト語に翻訳され、翻訳上の誤記や勘違い脱落があり、語順の危なっかしさもあるとのことである。
そうしたことから、「トマス福音書:七 イエスが言った、「人間に喰われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に喰われる人間は忌まわしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう」。(荒井献 ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 福音書 岩波書店)
のライオンと人間という描写はだから如何様にも読めてしまうそうである。人間に喰われる獅子は幸いである。」が正しいのか、「人がそれ(獅子)を喰って、その獅子が人になる獅子は、幸いなものである。」が正しいのか・・・先の投稿「例えばトマス福音書については次のような研究がなされています。 」のような論議もなされるわけである。
しかし、もともとこの写本はギリシャ語からコプト語に翻訳された時点で既に、不完全・不安定な部分があったのだから致し方ないだろう。だから、ここではそうした作業上のことではなく、一体この言葉は何を意味しているのだろうかと考えての解釈を試みている。文章を字面通りそのまま鵜呑みにしても意味は把握できない。人間がライオンを食べてライオンになったり、ライオンが人間を食べて人間になったりするわけがない。ここの比喩はやはりライオンの意味するところと人間の意味するところを考えるべきである。
たとえば古代の表現方法として、「彼は怒っている」というところを「彼に怒りの神がやって来た」というように神という表現によって表すことがある。
だからここは荒井先生の訳注やグノーシス関係の書籍、また歴史的背景や当時の考え方などを推し量って・・・・例えば当時コロッセオ(闘技場)では国家が提供する娯楽としての獰猛な動物と人間の戦い、拳闘士たちの命をかけた戦い、また残酷な死刑執行が興行として行われていた。だから当時の市民に写るライオン像はまさしく人間を喰い殺す恐ろしい大型野獣以外のものではなかっただろう。また時代は下るがマニ教のマニがイエス・キリストがインドへ布教の旅に出たという伝承を受けて、彼もまたインドへ赴いていたことなどから、ペイゲルスが指摘するように当時の仏教やヒンドゥ教の影響も考慮しなくてはならない。
するとライオンは荒井先生の訳注にあるように、これは動物のライオンではなく、人間の心・魂の横暴な部分を指し、人間とは物質に閉じこめられた心魂・霊を指す。(ヨハネのアポクリュホンに詳しい)コプト語もギリシャ語もまったくの素人だが・・・「人間に喰われる」「人間が獅子を喰う」の「喰う」という動詞はラムディン氏の英訳ではconsume となっているが、これは辞書を牽くと「consume: vt. 消費[消耗]する, 使い尽す; 食い[飲み]尽す; (火が)焼き尽す; 夢中にさせる.」とあり、eat や have ではない・・・「(火が)焼き尽す; 夢中にさせる.」という意味を含んでいる。となるとここは日本語の「喰う」という言葉にとらわれてしまうと分からなくなってしまう。The Gnostic Society Library  のTranslated by Thomas O. Lambdin では次のように英訳されている。Jesus said, "Blessed is the lion which becomes man when consumed by man ; and cursed is the man whom the lion consumes, and the lion becomes man."  http://www.webcom.com/~gnosis/naghamm/gthlamb.html コプト語やギリシャ語では「喰う」にどのような意味の動詞が使われているのか分からないが、consume は日本語の「喰う」以上の意味があるので、Lambdin 先生の英訳は解釈の大きな手助けとなる。ただし、The Gospel Of Thomas Homepage http://home.epix.net/~miser17/Thomas.html というサイトでは eat という動詞で英訳されている。7 Jesus said, "Lucky is the lion that the human will eat, so that the lion becomes human. And foul is the human that the lion will eat, and the lion still will become human."

ということから私は次のように解釈した。

七 イエスが言った、「人間に喰われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に喰われる人間は忌まわしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう」。(荒井献 ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 福音書 岩波書店)

荒井先生の注には次のようにある。「アルコーンの本質S 22(ナグ・ハマディ第一巻収蔵)では創造神(サマエール=ヤルダバオート)がライオンに似た傲慢な獣と言われ、ナーハーシュ派では獅子が性欲の隠喩として用いられている。」
獅子をフロイトの言うリビドー(性的衝動を発動させる力)のようなものとして、またインドの解脱に至る力としてのクンダリニー(性エネルギーを昇華させたものがクンダリニーエネルギー)と見て、これを意訳してみると、次のように読めるのではないか。
「人間が意図的にそのリビドー(クンダリニー)の力を制御することは幸いである。そうすれば、リビドー(クンダリニー)を人間が制御できるようになり、その野獣のような傲慢な力が人間的となる。」
「そしてリビドー(クンダリニー)に飲み込まれてしまう人間は忌まわしい。そうすれば、人間はリビドー(クンダリニー)の言いなりになってしまう。」

リビドーの言いなりになってしまうとは、物欲、性欲、権力欲などの欲に飲み込まれること。それはこの世界を物質だけのもので完結しているという誤謬のもとに人生を送ることであり、向こうのフィールドを考えると実に大きな誤りを犯してしまうことになる。欲にまみれた獅子(リビドー)も人間がきちんと制御すれば、獅子自身(リビドー)のその本領(クンダリニー)を発揮できることとなり幸せである、ということである。

という解釈となる。いかがだろうか!
 

例えばトマス福音書については次のような研究がなされています。

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 8月25日(土)16時42分31秒
  http://homepage3.nifty.com/gospels/thomas.html  から
<以下は小山氏のメールの主部です。字下げ・改行位置を変えさせていただいたほかは、すべて原文のままです>

 ナグ・ハマディ文書 第II巻(岩波書店)の荒井訳では最初の言葉が、

「人間に喰われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。」

となっているのですが、ここで「そうすれば、獅子が人間になる。」と訳されている部分は、コプト語原文では conjunctive と呼ばれる文型で記述されているのにふと目が止まりました。
 細かな説明は置いておくとして、要するに文法的にはこの部分のみを独立した文で訳すのではなく、前にある文(荒井訳で「人間に喰われる」に相当する部分)とセットにして、名詞文の主部である「獅子」にかけなければならないのではないかと考えたわけです。
 もしそうであるならば、原文を直訳すると

「人がそれ(獅子)を喰って、その獅子が人になる獅子は、幸いなものである。」

になるかと思います。
 コプト語と日本語の語順や構文の違いで複雑な訳文になってしまいますが、そのあたりを整理して荒井訳に近づけて意訳すれば

「人間に喰われて、人間になる獅子は幸いである。」

となるでしょう。
 それに対して、次のセリフに含まれている「獅子が人間になる。」の部分は、原文では Futur I の文型で記述されているため、独立した文として訳すことが可能です。

 ちなみにラムディンの英訳は、

Jesus said, "Blessed is the lion which becomes man when consumed by man ; and cursed is the man whom the lion consumes, and the lion becomes man."

となっていて、この両者の訳し分けがなされているものと思います。(引用終わり)

僕<cherubino>も、初めの「獅子が人間に<なる>」の動詞の形と、2度目の「獅子が人間に<なる>」のそれが違うことは、このサイトの下記のコラムや Coptic Circle でも紹介されている「Introduce Coptic Reader(Lance Eccles, DunwoodyPress, 1991)」というコプト文法の副読本で知っていたのですが、それが小山さんのご指摘のように、文型全体に大きく影響を与えるとまでは、正直考えていませんでした。既存の翻訳などでも、この点をふまえた訳はあまりなく(邦訳・英訳とも)、非常に興味深い新解釈と思い、ご紹介した次第です。
 参考までにこの「Introduce Coptic Reader」では、この語録7について次のように書かれています。

初めの「獅子が人間に<なる>」という部分;
「The conjunctive has the sense of and (here it is reinforced by "AUW"), and takes its tence from the preceding verb.」

2度目の部分;
「This time the future is used instead of the conjunctive.」

 僕の場合、以上のような解説がなされているのを見て、何となく納得していただけでした。

 ちなみに「conjunctive」とは、一般には「接続法」と訳される語法の一種で、例えば新約ギリシア語の文法書などでは、「直接法が、あることを事実として述べるのに対し、未来への予想・意図・期待・可能性などを述べるのに用いられる。」などと解説されることが多いようです(引用は、「聖書ギリシア語入門」野口誠・著、いのちのことば社、1990 から。蛇足ですが、接続法自体は、ドイツ語・フランス語など多くの言語の文法にある概念みたいです)。
 小山さんからいただいた情報によれば、『conjunctive という文型の性質は、実はコプト語のみならず、その祖先であるエジプト語についても、ようやく最近になって明らかになってきたというのが現実です。
 ですから、今回の私のコメントも別に「新解釈」というものではなく、新しい考えを取り入れて訳出してみたというだけのことなのです。』とのことです。
 トマスには、語録7意外にも、この conjunctive は使われていますし、これらの事項に関してご意見・情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、お気軽にメールあるいは掲示板でもお知らせいただければ幸いです。
トマス語録7の荒井訳  1999/11/06
 「トマス福音書」における本文校訂上の問題で、以前からちょっと気になっていた点があり、追加で書かせていただきます。 それは、日本のトマス研究の第一人者である荒井献氏の語録7の訳文の件です。
 イエスが言った、「人間に喰われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に喰われる人間は忌わしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう」。
 実はこの語録の最後は、トマスの原写本(コプト語)では、まったく逆で「獅子が人間になるであろう」になっているのです。わかりやすいように全体を書けば、つまり下記のとおりです。
イエスが言った、「人間に喰われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に喰われる人間は忌わしい。そうすれば、獅子が人間になるであろう」。
 ちなみに荒井訳の底本は、ギョーモン等の校訂本(直前のコラム参照)ですが、これを見ると、語録7は「獅子が人間になる」を本文に採用し、脚注の方で「人間が獅子になる」の読みの方が正しいであろうことを示唆しています。
 

瞑想の勧め

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 8月25日(土)11時50分42秒
  http://www.maitreyaproject.org/en/index.html

上記のリンク左側にあるブルーの日本語のアイコンをクリックして下さい。私はいろいろな瞑想法を試してきましたが、これは危険がないし、自分の心・魂の平安に実際に効果があります。ガイドにあるように仏教、キリスト教といった垣根もありません。リーラー的瞑想法です。
 

ナグ・ハナディ写本の解釈を試みます。

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 8月25日(土)00時32分20秒
編集済
  ナグ・ハマディ文書の日本語訳は極めて難解だが、おそらくコプト語やギリシャ語であっても同様に難解だったろう。欠損箇所が多く脈絡がないし、時制的連続性もない。しかもほとんどが箇条書きのスタイルのために前後を推定して読み進むこともできない。カトリックが正典と認証したマタイ・マルコ・ルカ、そしてヨハネ福音書のように物語的、文学的な体裁はまったくない。解説によればこうしたナグ・ハマディのスタイルは「キリスト語録」のようなものを底本にして書かれたもので、四福音書のようにキリストの伝記として書かれたものではないからだろう、としている・・・となると、潤色されていないキリストの言葉に近いのではないか・・・そんな思いもする。読者を対象にして書かれたものではなく、最も初期の仏典「スッタニパータ」に比定され、また仏教におけるそれぞれの部派仏教の「ニカーヤ」のようなものであったと考えられる。まだ体裁が整えられていない段階のキリスト教の聖典と位置づけることができるだろう。仏教経典が「如是我聞・・・」という書き出しを踏襲しているが、ナグ・ハマディ写本はまさに、キリストの言葉の「如是我聞」なのかもしれない。
 さて、この写本の解説書は欧米のたくさんの学者や日本の学者が書いているが、歴史的背景や当時の政治状況、またいわゆる宗教学的なことに終止しており、驚くことにその内容についてはほとんどふれていない。つまりこの難解な表現が一体どのようなことを表しているのかということについては、説明していないのだ。内容の注釈ではなく、カトリックが認めた新約聖書とどのような関連があるのか、また旧約聖書のどこから引いてあるのかといった類のことで終止している。
一体何が書いてあるのか皆目見当もつかないほどの代物だから、おそらくこのままの体裁では、世界のほんの一部の人だけしか興味をもたないだろう。
またトーマス福音書はマニ教の正典の一つであったとも伝えられていることから、仏教との関連というか、相互に共通した哲学を想定することもできるだろう。するとかつてそうであったようにそこに一つの道ができる。21世紀の現代ではキリスト教と仏教、マニ教やマンダ教、回教などはまったく別のものだと考えられているが、そうではなく相互に関係しており、実は同じことを言っているのかもしれないのだ。回教の拝礼などの宗教儀礼は当時の中東からヨーロッパ、中国までの世界宗教であったマニ教を踏襲したものであり、もしマニ教の下地がなければ回教が三大宗教の一つとなることはなかった。
つまり、もともと人類には共通の一つの考え方があったのだが、それは常に政治権力や財力によって細切れにされて別々のものとされてしまったのだ。
西暦紀元100年から200年に流布していたキリスト教としての(一部はキリスト教とは関係のないグノーシス文書だが)ナグ・ハマディ写本の翻訳から注釈を試みて、内容がいかに仏教の考え方に近いかをここで考えてみたい。
 

By the way・・・Gnosis

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 8月16日(木)22時46分45秒
  Gnosis は英語でKnowledge と訳され日本語では一般に知識・認識とされているが、Knowledge よりも Insight(洞察)の意味が強いとペイゲルスは述べている。全く同感である。  

Gnosis

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 8月16日(木)14時05分14秒
編集済
  岩波書店から出版されている全4巻の「ナグ・ハマディ文書」を一巻から順に読みだしたのだが、「ヨハネのアポクリュフォン」は本を開いて、一体これは何が書いてあるのか!と絶句した。分からないのだ。確かにパピルスの写本は三種あり欠損もある。しかも西暦紀元二世紀にギリシャ語で書かれたものを四世紀にコプト語に翻訳したものであり、さらに本書はこれを日本語に翻訳したものというすさまじさである。しかし訳者は研究に研究を重ねてくれている。
だがこの私にはとても歯が立たない・・・・エレーヌ・ペイゲルスの「禁じられた福音書」と「ナグ・ハマディ写本」とマニ教の概要などの本を参照してから、再び「ヨハネのアポクリュフォン」を開いてみた。すると、今度は以外とその意味が分かるようになってきた。長くなるがセクション12-13から引いてみよう。

彼は、自分を取り囲んだ彼自身の光の中で自己自身を把捉する者、とはすなわち、生命の水の泉、清浄さに満ち満ちた光である。
12 霊の泉が、光の活ける水から流れ出て、すべてのアイオーンと  あらゆる形の世界の支度をした。彼は自分を取り巻く純粋なる光の水の中に彼自身の像を見たとき、それを認識した。すると彼の「思考」が活発になって現れ出た。それ(思考)は光の輝きの中から彼の前へ歩み出た。
13 ―すなわちこれが万物に先立つ力であり、今や現れ出たものである。これがすなわち万物の完全なる「プロノイア」、光、光の似像、見えざる者の影像である。それは完全なる力、バルベーロー、栄光の完全なるアイオーンである。彼女は彼によって現われたからである。そして彼女は彼を認識する。彼女は最初の「思考」、彼の影像である。彼女は第一の人間となった。これはすなわち処女なる霊のことであり、三倍男性的なる者、三つの力と三つの名前と三つの生殖を備えた者、不老かつ男女なるアイオーンであり、彼のプロノイアから現われ出た者である。
プロノイア:摂理(プレローマ、中間界、地上界のそれぞれに一つづつプロノイアを割り振り、中間界と地上界のそれについては宿命と同一視している)
バルベーロ:至高神の最初の自己思惟として生成する神的存在。プロノイアと同義の場合もある。
アイオーン:擬人化された神的存在であり、万物、流出の意味もあるが、時、時代、世代の意であり対から流出する。


 さっとこんな調子でヨハネのアポクリュフォンは書いてあるのだが、第三章で検証した「死者の書」にも通じる所があり、存在論は唯識や中観、空観とも言えるきちんとした論証だ。もちろん、プレーローマやバルベーロなどとても日本語には翻訳できない言葉や擬人化や神など、神話にしか見えない所もあるが・・・これは神話という形を取っている存在論であるということが言える。これは透徹した理論であり、現代物理学にも通じる凄まじい学問体系である。しかし、これは瞑想や思考や思考実験、霊的体験によって編まれたものであるから、これは向こうのフィールドとのリンクとグノーシスを得ることによって成ったものなのだろう。
 この検証は第四章で考究するつもりだが、ナグ・ハマディ文書の全四巻を読むにはさらにたくさんの本を読まねばならなくなるので、時間もかかるだろう。だが第三章においての「死者の書・検証」のように、グノーシスはぜひまとめなくてはならない重要な思想である。ちなみに引いた部分の私の検証を次に述べたい。
「霊の泉が、光の活ける水から流れ出て、すべてのアイオーンと  あらゆる形の世界の支度をした。」
この部分はビッグ・バンの描写に思える。向こうのフィールドを霊の泉と考え、そこから光の活ける水、つまり原子がぎっしりと詰まった高熱の存在がこちらの物質世界へと流れだし、ヘリウムや水素原子からさまざまな原子を形成する用意が調った・・・と読めるのではないか。
「すると彼の「思考」が活発になって現れ出た。それ(思考)は光の輝きの中から彼の前へ歩み出た。」
さらに向こうのフィールドからは構築するという意志、つまり科学で言うところの作用・反作用や重力や光の速さ等が自ずと現われ出で、(複雑系でいう自己組織化)統一のとれた世界・・・つまり星々と宇宙空間を作る用意ができた。
「すなわちこれが万物に先立つ力であり、今や現れ出たものである。これがすなわち万物の完全なる「プロノイア」、光、光の似像、見えざる者の影像である。」
光の速さや重力は目には見えない、これがすなわち万物の完全なる摂理(プロノイア)、見えない力、つまり万物を支える光から出た見えない影像である。

 私はヨハネのアポクリュフォンをこのように読まざるを得ないのではないかと考える。
 

疑問・・・共通項

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 8月11日(土)13時45分46秒
   これまで無数の魂が輪廻転生を繰り返しているとすれば、向こうの正しい情報が少しはこちらに伝わっていてもよさそうなものだが、死んだばかりの幽霊の情報しか伝わってこない。一歩踏み込んだ情報はほとんどないように思える。
ここではこのことについて、少し考えてみたい。
結論から言うと・・・誕生してから死までの期間と死んでから再生するまでの期間がワンセットでありながら、死の世界、つまり向こうのフィールドの情報はまるでない。
こちらの存在が向こうのフィールドと密接にリンクしており、向こうによってこちらが成り立っているならば、向こうの情報がこちらに伝わってもよさそうなのだが、それがないのは不思議ではないか?ということである。
しかし、これは当然のことではある。なぜなら魂や心と呼ばれるものは向こうにあるソフトからこちらのハードである脳神経細胞にダウンロードされて生じるものだが、向こうのフィールドの情報はそのダウンロードとは別の経路にあるからだ。たとえば、ウェブ上の情報はいくらでも手に入るのに、パソコンでテレビを見るにはキャプチャーボードを搭載しなくてはテレビを見ることができない。つまり、なぜかは分からないがこちらのフィールドは向こうの情報を知ること無しに成立しているのだろう。ウェブ情報だけで機能しており、テレビの情報がなくてもなんら問題がないからだと考えられる。
つまり、生体には向こうの情報をダウンロードするキャプチャーボードが搭載していないか、また搭載していても極めて感度の低いものなのかもしれない。初期のパソコンのCPUでは動画情報などとても処理できないが、高速CPUならそれができる。またメモリーやハードディスクの問題もあるが・・・・そういうことなのではないだろうか。しかしながら、仏陀やキリストという存在はそのキャプチャーボードを初めから搭載してこちらのフィールドに再生したために、向こうのフィールドの情報をかなり的確に知っていたのだろう。ただし、その情報は対人間において情報伝達には不完全な言葉に置き換えるしかなかった。画像情報を言葉に置き換えることすら、難しいように言葉は不完全だ。一枚の花の写真を言葉に置き換えてみれば、言葉の情報伝達の限界を直ぐに知ることができる・・・それはチューリップの花であり、色は赤で、茎は黄緑で、その長さは背景の物から推測して約20センチであり、花の赤の中には少し白い斑点があり、花弁は・・・オシベとメシベは、植えられている鉢の色は・・・・写真を言葉に置き換える作業はまるで全宇宙を相手にするのと同じで、いくら説明してもしきれない。
これと同様、向こうのフィールドを仏陀やキリストが言葉によって説明してもわれわれ凡人には理解ができないのである。また、こうした貴重な言葉に対しても、さらに権力や財力など真理とはほど遠い作用が山ほど湧いてきて、結局は何がなんだか分からなくなってしまい、現世で水太りしたような宗教家が意味不明の言葉で民衆を騙し続けるだけとなってしまうのである。
 しかし、われわれのニューラル・ネットワークを動かすCPUは確かに遅く、また向こうのフィールド情報を知るキャプチャーボードも性能は極めて悪いのだろうが、それはあることはある。また不思議なことにこちらのフィールドにあっても、CPUやボードの性能を高めることはできるようである。たとえば数々の仏典・・・「法華経」「華厳経」「死者の書」や「唯識」、キリスト教の「聖書」、回教の「コーラン」、そしてナグ・ハマディ写本などはその機能を高めた人々によって編纂されたのだろう。だから共通項があるのである。
 

古代文献の比較検証

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 8月11日(土)13時06分5秒
編集済
  なんと恵まれていることだろう。この国では無数の翻訳家たちがいて、世界のあらゆる言語を日本語に翻訳してくれている。英語、中国語、ドイツ語などの現代語はもちろんのこと、サンスクリット語、アラム語、古代チベット語、古代朝鮮語、コプト語、古代エジプト語、ギリシャ語・・・・英語から検索して「え!辞書ひきながら英語でこれを読むのか~、うわーこれは原語しか出版がない!」と絶句して、いやもしかすると翻訳が出ているかもしれないと、ネットで調べると大概それがある。おかげで、サンスクリット語やコプト語直訳の日本語が手に入る。たとえ玄奘三蔵のような語学力があろうとも、全世界の文献を原語で読破することは人間の寿命からいって無理だ。たとえ、意訳が過ぎていたり、多少の誤りがあったとしても日本語で概要はつかめる。ぼくのような乱読者にとってはこの上もない幸いである。たくさんの翻訳家たちの努力に感謝する次第である。
 ということから、たとえば唯識思想の龍樹の「六十頌如理論」(サンスクリット原本は存在せず、チベット語訳がある)とナグ・ハマディ写本(ギリシャ語からコプト語に翻訳された写本)の比較検討ができる。これらの原語だけを研究しても、一生かかるものだが、それができる。詳述は第四章にゆずるが、古代文献には共通項があることに気付かされる。
たとえば、向こうのフィールドの存在故にこちらのフィールドがあること、輪廻転生、こちらでの考え方・出来事は次なる人生にその考え方・出来事がフィードバックされること、「貧しき者は幸いである」「色即是空・空即是色」など、こちらでは理解不能なことも、そうした共通項から考えると肯けること・・・・などなどである。またこちらでの善悪はトータルではどうやら違うこと、またこちらでの人生の状況はよどみに浮かぶうたかたのようにはかないものであり、こちらで大権力や大きな富を有したりしても、死を迎える際はそれがなんの役にも立たないこと、結局素っ裸で一人でそれに立ち向かうしかないこと・・・などなど、古代文献にはこちらでの善悪、状況とは違うテーマが満載である。
 

ヨハネのアポクリュホン

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 8月 8日(水)00時53分47秒
編集済
  「ナグ・ハマディ文書・訳 荒井献・岩波書店」全四巻の第二刷が今年の五月に出た。簡単に手に入る。
私は現在「ヨハネのアポクリュフォン 訳 大貫隆」に悪戦苦闘している。初めて読んだときは一体何が書いてあるのか見当もつかなかったが、徐々に理解がすすんできた。
12セクション 至高神の自己分化 『霊の泉が、光の活ける水から流れ出て、すべてのアイオーンと あらゆる形の世界の支度をした。彼は自分を取り巻く純粋なる光の中に彼自身の像を見たとき、それを認識した。すると彼の「思考」が活発になって現れ出た。それ(思考)は光の輝きの中から彼の前へ歩み出た。』
こうした形容・描写が「死者の書」をまじまじと連想させ、その内容の意味の近さに驚いた。いや近いというよりは、異なった描写にすぎず、意味は同じではないか、と考えさせられる。至高神について(つづき)『・・・至福なる者、至福を分け与える者、常に善なる者、善を分け与える者、善を行う者。彼がこのような者であるのは、彼がこれらを持っているからではなく、むしろ彼が(それらを)分け与えるからである。・・・・』・・・これは涅槃寂静とコンセプトは同じで、涅槃は寂静である、ということだ。掲示板では詳しくは書けないので、第四章にてこうしたことを論考していきたいと考えている。
 

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 7月31日(火)00時47分26秒
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Woher_kommen_wir_Wer_sind_wir_Wohin_gehen_wir.jpg
上のリンクの絵はポール・ゴーギャンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」1897-1898 という表題の絵である。
この言葉がグノーシス主義の教師テオドトスの言葉(140-160)をひいていることをエレーヌ・ペイゲルスの「ナグ・ハマディ写本」白水社によって知った。(孫引きもいいところだが・・・)テオドトスは次のように記している。
「われわれは何者であったか、また、何になったのか。われわれはどこにいたのか・・・・どこへ行こうとしているのか。われわれは何からとき放たれているのか。誕生とは何か、また、再生とは何か。」
ナグ・ハマディ写本のトマス福音書は、「インドのヒンズーあるいは仏教の伝承がグノーシス主義に影響を与え得たのであろうか」とペイゲルスが書いているように、この言葉は明らかに輪廻転生を示唆している。カトリック(普遍的統一キリスト教会)が成立する以前はこうしたグノーシス主義こそがキリスト教の柱となっていた可能性が大きい。なぜなら、カトリックはキリスト教(キリストの教え)が中東からヨーロッパに渡った後に、ヨーロッパ人であるエイレナイオスが画策したキリスト教だからである。キリスト教はヨーロッパに入って後、もともとの多様性から一党独裁的カトリックに変質していった。カトリック的要素はそもそも中東やその他の地域にはなかった。
カトリックは天国と地獄、来世を教会の下で管理しようとしたのである。
同著より・・・「グノーシス主義のもう一人の教師モイノスは、こう述べている。
『神とか、創造とか、これに類似したことを捜し求めるのはやめなさい。あなたがた自身を出発点にして、彼(究極的存在)を求めなさい。あなたがたのなかにあってすべてのことを思う通りになし、「わが神よ、わが心よ、わが思いよ、わが魂よ、わが身体よ」と言う者は、誰だあるかを知りなさい。悲しみ、喜び、愛、憎しみの原因を知りなさい。・・・あなたがたがこのようなことを注意深く吟味するならば、あなたがた自身のなかに、彼を見いだすであろう』」

 カトリックは神を人々の心と魂から、天上と教会へ追い出し、それを知るには教会が必須であるという権力主義の構築を目指した。向こうのフィールドを知る者にとって、このようなことはとても恐ろしくてできない。かれらは知らないから、こうしたことができたのだろう。知らないことほど恐ろしいことはない。存在が、人が、現世だけの現象であるならば、こうしたことも理解できるが、そうではない。こちらは明らかに鏡像的存在だ。瞑想や宗教によらずとも、近い将来には万人がこの構造を知ることとなる。
 

ナグ・ハマディ写本

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 7月24日(火)21時39分39秒
  初期キリスト教の研究者によれば四福音書が正典とされ、他の福音書やグノーシス関係の聖典は焚書の対象となった。それは西暦紀元170頃20代であったエイレナイオスという人物がその布石を打っていた。当時のキリスト教はペテロ派キリスト教、トマス派キリスト教など実に多様だったが、信奉する福音書(マリアによる福音書、ユダによる福音書、トマスによる福音書、ピリポによる福音書・・・マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)に基づいてその集団化が成されており、それをエイレナイオスはヨハネ派一つにまとめるべきだと考え、カトリック(普遍的)と呼ばれる唯一の教会作りを目指した。当然ヨハネによる福音書に異同がある文書は捨てられた。
そのカトリックから抹殺された文書が「ナグ・ハマディ写本」である。この写本の詳細は既に数多く出版され誰でも手に入れることができる。是非、お読みいただきたい。 http://www.amazon.co.jp/gp/yourstore/ref=pd_irl_gw/250-5048064-6741018?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=ilm&pf_rd_r=099PVMM8CDA6GGQ6NNA4&pf_rd_t=101&pf_rd_p=68007806&pf_rd_i=489986

また英文ではTHE GNOSTIC SOCIETY LIBRARY というサイトまであり、1700年間隠され続けてきた沢山のキリスト教の聖典が世に出ている。

仏教にはカトリック(普遍的統一教会)はなく、あらゆる経典を仏教と呼んで平然としているが、それは懐が深いともいえるが、一面、節操がないという批判もある。しかし、仏教を考えるのに沢山の選択の余地があるということは素晴らしいことである。
ナグ・ハマディ写本により、これからのキリスト教は仏教のように我々一般人にも選択の機会を与えることなった。振り返ってみれば、あのマザー・テレサはトマス派キリスト教徒であったと言える。つまり、神は天や教会に存在するのではなく、自分自身に内在しているという確信から、あのような聖人となったのだろう。神は天や教会に在すというカトリック的信仰と異なっていることは明らかだろう。だから、ローマ法王から高級車をプレゼントされそれを即日売り飛ばして、アフリカに建設する病院のための資金にしたという逸話があるのである。
またエレーヌ・ペイゲルス「禁じられた福音書」青土社に次のような挿話がある。アメリカ人のリチャード・ベイカーはボストンから京都の禅寺で仏門に入っているが、彼は「もしも拙僧がトマスによる福音書を知っておったなら、わざわざ仏教徒にはならなんだでしょうな!」
 

色即是空

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 7月20日(金)19時13分23秒
   色即是空

色不異空 (形あるものは実体がないことと同じことであり、)
空不異色 (実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。)
色即是空 (したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、)
空即是色 (実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。)

上記はある高名な方の般若心経の説明であるが、このような説明では凡人には何も分からない。
「形あるものは実体がないことと同じことであり」・・・・「形あるものは実体がない」とは一体どういうことだろう。実体とはそもそもなんのことだろう。こんな説明では何も分からない。難しい用語の羅列にしか見えない。あるいは、このような用語をよく理解していない浅学な者は相手にしないということなのだろうか。おそらく般若心経をよく理解するならば、こんな難しい用語で意味もつかめない説明はしないのではないか・・・そうとしか感じられない。説明の内容に何かが欠けている・・・つまり物質世界だけからこれを説明しようとしているのではないか・・・そんな疑問がわいてしまう。だから字面だけでなんとか説明しようとするが、舌足らずになってしまっている。
機械論的宇宙観による説明をする人間が仏教界を牛耳っているから・・・日本の仏教界は葬式イベント屋から脱却できない。有り余る財政がありながら悩める人、苦しむ人に手を差し伸べることなどしない。有力檀家の太鼓もちをするのではなく、慈愛や慈善がいかに仏の供養になるかを説得したらいいではないか。寺の奥にいて、高邁でお品のよい話をしているのもいいだろうが、たまには外に出てホームレスに500円玉一個あげても罰は当たらないが・・・おそらくそんなこと一回もしたことがないだろう。捨て猫、捨て犬の面倒を見る・・・そんなこと考えたこともないだろう。500円がないのなら、犬や猫を飼う場所がないのならそれはできないだろうが、どうだろう、お釈迦様に聞いてみたらいい。苦しむ人、苦しむ生き物を救うことを仏教は説いている。
組織は新興宗教と変わらないピラミッド型の集金組織にすぎない。高位にある者は強大な権力を持ち下位の者から収奪して、行い澄ましている。なんということだろうか。株式会社より、役人たちよりもひどい。

リーラー的解釈は向こうのフィールドをきちんと見据えることからはじめる。
色不異空 空不異色 の意味は確かに「形あるものは実体がないことと同じであり」に似てはいるが原義はそうではない。Rupan iva syunyata syunyata iva rupan であり色(rupa)は物質であるが,空(syunya)はもともとゼロ(0)の意味である。直訳だと「物質はゼロに異ならず、ゼロは物質に異ならない」ということになる。つまりそもそもの意味は物質は始めから存在していないから、ゼロであるということだ。「形あるものは実体がない・・・」などとことさら抽象的に表現するものだから、よけい真意がくみ取れなくなってしまう。いや、抽象的というより、茫洋としたわけの分からない表現と言ったほうがいいかもしれない。それくらいこの方の解釈は何がなんだか分からない。
つまり、向こうのフィールドをきちんと意識していないことからの結果、このような形而上学的な説明になってしまうのだろう。
「色不異空」の説明は「形あるものは実体がないことと同じことであり」などとことさら難解な表現にする必要はない。「存在はからっぽであることと変わらない」とする。そして、からっぽの意味は向こうのフィールドから、こちらのフィールドへ投影された実体のない影と同然のものだからだ。投影されたものは影と同じで、確固とした存在としてあるわけではなく、単なる影にすぎない。だから影によって構成されているこちらのフィールドはもともとは何もないからっぽなのである。あえていえば投影した影が映る空間としてのスクリーンしかない。その空間というスクリーンすら、向こうのフィールドから投影されたものなのだから、当然こちらのフィールドには何もないことになる。そういう意味から「色不異空」の説明は「存在はからっぽ」ということになる。
だから次の「空不異色」も当然、「からっぽであることは存在と変わらない」となる。もともとこちらのフィールドはからっぽであり、向こうのフィールドからの投影である現象にすぎない。
さて「色即是空・空即是色」はその言い回しから、前の「色不異空・空不異色」の違う表現にすぎない。ここではきっぱりと「存在はゼロなり・ゼロは存在なり」と言い切っている。
 

キリスト教について

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 6月29日(金)00時47分51秒
編集済
  ヨーロッパ主導の現在のキリスト教が公認しているマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書のほかにQ資料の存在や、1945年にエジプトで発見されたナグ・ハマディ文書(トマス福音書などを含む)の存在を考えると・・・・グノーシス派が異端とされた経緯と重なり、複雑な心境になる。マニ教や、やはり異端とされたキリスト教ネストリウス派の存在も気になる。現代に伝わるキリスト教とは一体なんなのだろう・・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC

 

「向こうのフィールド」と「テンプレート」

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 6月19日(火)01時06分47秒
編集済
   第三章 第七感への誘い(あの世の存在証明)で「向こうのフィールド」という用語を使っているが、調べてみるとこうした概念は、表現は様々だが多方面でその存在に気付いているようだ。物理科学でいう物質存在の二元性や、当然のことながらほとんどの宗教はこの「向こうのフィールド」を根拠にしている。この例の一つに「遠隔ヒーリング」を引用したのでよろしければ、直接このサイトに訪問なさってみて下さい。ここでは「向こうのフィールド」のかわりに、「テンプレート」という用語を使用している。概念はよく似ていると思う。(概念http://www.ryoushi-rikigaku.com/visualize_concept.htmlをご参照下さい)


遠隔ヒーリングとはなにか。http://diary.jp.aol.com/r4aezf7xj/
2006年11月にロマノフが来日した時、雑誌のインタヴューに同行したり、またみんなでお茶を飲んだりしている時にいろいろ話を聞いてみた。ロマノフのヒーリングは、まずその人の(ヒーリングの受け手)の「テンプレート」に働きかける、という。「テンプレート」という考え方は、私はこの時はじめて耳にした考え方で、ロマノフが独自に到達した概念かと思ったら、ロシアの物理学者ヴァジム・ゼランドもその著書『振り子の法則・リアリティ・トランサーフィン』の中で「テンプレート(鋳型)」という言葉を使っていた。

宇宙というか空間というか、自分の身近な空間に自分の情報フィールドが浮かんでいる、という。浮かぶ、という言葉が適切かどうかは知らないが、自分が生活している時空とは違う異時空に、自分の情報フィールドが存在する、という。その情報フィールドには、自分が何歳くらいでこういう病気になって、ここで事故にあって、こういう傾向の結婚形態をとり、こういう傾向の病気になりがちで、というようなことが、事細かにすでに決まっている。その事細かに決まっている運命みたいなものが書かれてある情報フィールドをみんなそれぞれ持っている、という。その自分の鋳型みたいな情報フィールドを「テンプレート」という。

ロマノフのヒーリングは、その人の「テンプレート」にはたらきかけ、「テンプレート」をよりよいものに直していく、変えていく、ヒーリングしていく、という。たとえば、私には、片頭痛に苦しむ、という「テンプレート」があった。身体の問題としては、首と背骨に問題があり、心の問題としては、亡くした娘に対する罪悪感があった。その2つが複雑に絡み合い片頭痛を起こし、苦しんでいた。ロマノフは、この片頭痛で苦しむという私の情報フィールドの「テンプレート」を何ヶ月もかけてヒーリングし、「テンプレート」を書き換え、修繕し、片頭痛にまつわるすべての問題を表に出して、「テンプレート」から追い出し、片頭痛のない「テンプレート」へとヒーリングしてくれたのだ。
 

実験の進捗状況

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 5月 8日(火)14時39分43秒
  実験はぼちぼちとやっていますが、今一つつかめないところがあります。しかし、一ヶ月後か十年後か、あるいは完成しないままかは分かりませんが十分手応えはあります。人間にとってのポイントはやはり「言葉」にあるようです。それが向こうのフィールドに蓄積されており、それがフィードバックして具現するのです。呪文や教典や陀羅尼、唱え言葉いろいろありますが、それが具現しないのは解釈に誤りがあるからです。きちんとした解釈のもとにあれば・・・。解釈とはダウンロードする際のIDやパスワードのようなものです。そのパスワードの一つの方法がリーラーなのであります。どうぞご期待下さい。  

テレパシー現象などについて

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 4月18日(水)11時39分25秒
  テレパシー、共時性、予知など世の中にはわれわれ人にとって不思議な現象が現れるが、これも向こうのフィールドを想定することによって、そのメカニズムを知ることができるだろう。現在テレパシーなどを電磁波などによって説明することが一般的だが、そうした物理的なことではないだろう。シェルドレイク氏の形態形成場の仮説にその根拠を見いだそうとする考え方があるが、まさしくそのとおりだと思う。
陸米軍やスタンフォード大学のテレパシー研究はその根拠を物理的なところに置いているように見えるが、当然向こうのフィールドとのリンクに気がついていることは確かだ。ただ、アラスカのハープのように闇雲に研究を求めることによって、目標が定まらずただただ実利的な面を追い求めているために結果的に人類と環境に対する正しい成果が上がらないのではないかと考える。
 

霊能者・霊媒に関して

 投稿者:遊観  投稿日:2007年 3月30日(金)23時20分56秒
  霊能者、オカルティスト・・・呼び名はいろいろだが、確かにその手の人たちは会話の中から人のウィークポイントや心の引っかかりを探し出すのがうまく、びっくりさせることがあるが、だからといってそうした人たちが向こうのフィールドに通じているとは限らない。私はこれまで沢山のそうした人たちに会ってきたが、霊媒体質のため浮游霊に身体を貸して向こうのフィールドから情報を得ているようである。しかし、浮游霊はバルドゥの先へまだ行っていない人たちである。確かに彼らからの情報を得ることによって現界で利益を得ることはあるが、それは人間の魂というものの真の利益があるわけではない。
彼らからの情報による強烈な祈りは功を奏することもあるが、それはまかり間違えば自らの魂をすり減らすことになってしまう。われわれ凡夫は目先の利益が成就すると、それだけで満足してしまい、魂の根元を問うことがなくなり広大な向こうのフィールドや死のあり方について考えることをしなくなってしまう。そのために、実際に死に直面したとき恐怖が去ることはない。また、浮游霊は自らが現界にさまよっているのだから、当然死者を導く手だてを知らない。現界に積極的に関与してくる霊はまず自らの死を認め、安らかにに道を行かねばならない。人間と幽霊の違いは単に肉体があるかないかだけの違いである。それは確かに大きな違いではあるが、魂的にはそうは違わない。
だから、縄文遺跡にみられる墓制は現代とはまったく違い、死者と生者にことさら線を引くことがない。
われわれ凡夫は霊媒者の言葉を信じがちだが、かれらは一様に人を見下す態度をとることが多く、人格的にはそうは高くない。だから相談をしに来た人の幸せを願うわけではない。そうした特異な能力をひけらかすだけだ。もし、人生に行き詰まったら自分の外のそうした存在に救いを求めるのではなく、神仏は自分自身の奥深くに内在するものなのだから、自分の中に救いを求めるべきである。まかり間違ってもいわゆる霊能者の言葉を鵜呑みにしてはならない。
 

生と死は量子と通常の物質との関係に似ている!

 投稿者:存在  投稿日:2007年 3月 3日(土)23時38分32秒
  原子や電子の振る舞いを量子力学で、それらが集まった物質の振る舞いを一般物理学で説明しなくてはならない。まったく同じものなのに不思議なことである。
量子的な問題が、猫が生きているかどうかという通常の世界に投影するか否かという、「シュレーディンガーの猫」で有名な思考実験があるが、これが解答を得られないように量子と通常の物質はまるで違う法則の下にある。鉄一㎏をどんどん細かくしていくとFeという原子になるが、鉄とFeは似ても似つかぬ存在だ。どうして世界はこのように構成されているのだろう。まるで違うものが同じもであるとはどう考えても不思議としか言えない。同様に、こちらのフィールドと向こうのフィールドもそのような関係にある。
「死者の書」がひとの生の状態も死の状態もバルドゥという一つの世界の中に括っているのはそのような関係を示唆している。
 

遊観

 投稿者:存在  投稿日:2007年 3月 2日(金)00時08分18秒
  六十頌如理論では存在を「依存関係にあるもので、実体としては無い」とする見解を取りますが、これは散逸構造論の先取りです。その他「かの国からこの国へ」「この国からかの国へ」という叙述はぼくの提唱する「向こうのフィールド・こちらのフィールド」を連想させるもので、なんというかやはりお釈迦様の手の内なんだなあ・・・そんな感じがします。
アビダルマ・空観・中論・中観、また般若部の教典を子細に思索して行こうと考えます。かつては法相宗でこのような論議が精力的になされていたのでしょうが、現在もそうなのでしょうか?仏教がすっかり葬儀のイベント屋に転身してしまった現代、死の問題をきちんと解釈できる資質を持っているにもかかわらず誠に残念に思います。西田哲学も唯識の考えを応用しているだけでなく、用語までそのまま使っています。唯識はまたユングの無意識とアラヤシキ、フロイトの無意識とマナシキなど、心、精神を考える者にとっては宝の山ですが、科学の世界でも同じことが言えるのではないでしょうか。
日本語の翻訳や漢訳仏典はやはり翻訳の壁があるためか、理解するのに時間がかかります。でもこれからまたあの難解なサンスクリットを勉強し直す勇気がありませんので、瞑想と思索によって理解に努めるしかありません。
 

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